「このままだと間に合わない。これからどうすればいいんだ」。2014年、NDSがソニービジネスソリューション株式会社(以下、SBSC)の下で進めていた、放送局向け録再システムの開発プロジェクトは、開始1年ほど経過した段階で、危機に瀕していた。そのチームを率いていた豊田昌幸は「当初予定していたアーキテクチャが、技術的にもスケジュール的にもハードルが高すぎて、理想と現実が大きく乖離してしまっていた」と当時を振り返る。
そんな中、プロジェクトを立て直すべくアサインされたのが、SBSCのプロジェクトマネージャーである川部剛氏だった。以後長年に亘って密接に続いていく川部氏とNDSのパートナーシップであるが、実は、こんな危機的状況から始まったのだ。
「問題の数は少なく見積もっても1,000件を超えていて、さらに発散する恐れがあった」と、川部氏はこの現場の異質さに気付く。3カ月間ほどの奮闘の後、「これをまとめ、収束させるのは、正直言って、不可能なのではないか」。そう感じた川部氏は一つの決断を下す。
それは、「最大の問題であるアーキテクチャを刷新する」という、ある意味ちゃぶ台返しのような打開策であった。その決断に豊田は、「普通は決められた枠内でなんとかしようとしてしまうもの。その枠を壊すまでの決断はなかなかできないし、思いついても実際に行動に移し、社内外・顧客の説得はできない」と驚愕したという。
川部氏は、「お客様には『使い勝手は変えず、品質・性能を向上させる』という立て付けで交渉し、契約上の問題をクリアし、承認を得ました」と語る。こうしてプロジェクトは、予算も体制も一から組み直してリスタートを切ることになった。
その際、川部氏は自ら新しいメンバーをアサインし、体制を一新していったが、NDS だけには引き続き声をかけた。なぜ新体制において、NDS を外すことをしなかったのか、川部氏は「もちろん『全部外して組み直せ』という声もあるにはあったが、問題はアーキテクチャであって、開発自体ではないと思ったんです。それに、お客様に使い勝手の面で迷惑をかけるのは愚の骨頂。ここに来て一から新規協力会社とともに仕様を学ぶなんて悠長なことをしてはいられません。そういう意味で、仕様を誰よりも理解している NDS は欠かせないピースだったから」と答える。
そんな川部氏のはからいに、豊田は「NDS としては雪辱を果たす良いチャンスをいただいたという想いでした。『エンドユーザであるお客様に最高のシステムを納品する』という使命感がありましたし」と感謝を覚えたという。一方で、「問題のアーキテクチャについても、ソフトウェア開発の立場からもっと技術的な提案をすべきだった」と反省する。
当時のシステム開発の常識は、役割分担をガチガチにして、トップダウンで進めていくものであった。アーキテクチャ策定において開発側から意見を募ったり、レビューをしたりなんてことは考えられなかったので、しかたない話だったかもしれない。だが、川部氏は「そういう受発注の主従関係を壊したかった」と語る。川部氏は「みんなが幸せに。働いている人が幸せに。」をスローガンに、チームにてこ入れする。
そこで豊田は、「川部さんとなら、トップダウン一辺倒ではなく、ボトムアップでも垣根無くなんでも話せる関係性を作れる」という確信を得て、川部氏に開発手法『アジャイル』を提案したのだ。
「実は、アジャイル自体は、このプロジェクト当初から、NDS チーム内に限って実践していたんです。今回思い切って、『NDS チームの枠を超えて、SBSC 配下で一丸となってアジャイルを推進しませんか』と提案したわけですね」と豊田は語る。
周囲のプロジェクトのどこを見渡しても、アジャイル開発の前例はなかった。それでも、本格的なアジャイル開発を実践したいという想いを持っていた川部氏は、豊田の提案に強く頷いた。これを受け、川部氏は、NDS をはじめとした開発会社をサブシステムごとに振り分けるかたちではなく、「ONE TEAM」として編成した。前代未聞のことだった。
結果、この試みは見事効を奏し、あの危機的状況だったプロジェクトは予算オーバーもせず、納期通り成功裏に終わった。その成功要因を豊田は「NDS が培ったアジャイルのノウハウを活かすべく、川部さんの求心力で、会社の垣根を壊してくれたこと」と語る。川部氏は笑いながら「スクラムマスターの豊田さんを中心に、NDS がとりまとめてくれたからですよ」とうそぶくが、ともに大きな壁を乗り越えた経験が、川部氏と NDS とのコラボレーションを加速させていくことになる。